「児島のおんなは働くんよ」という言葉、女性の社会進出や共働き世帯が当たり前となった現代では普通のことかもしれない。しかし、一昔前まで、他地域から嫁いできた女性はこの児島文化に驚いたという。なにしろ専業主婦はもちろん、育児中の仕事ができない期間までを「遊んでいる」と、謙遜するひともいるくらいだ。これは繊維のまち児島の歴史と深いつながりがある。
地域内で一貫した工程を行ってきた児島。たくさんの企業とたくさんの仕事、人手を必要としていた。九州や四国からも労働者を募り、多くの女性が働いていた。そして女性の労働に関して現在も昔も関わらず問題になってくるのが結婚や出産、育児といったライフステージの問題だ。児島では内職というかたちで女性の労働力を維持していた。それが組縫(くにゅう)と呼ばれる仕組みだ。
組縫(くにゅう)とは、縫製外注組織のようなもの。自宅もしくは数名が集まったちょっとした工房で、各自リースまたは買い取りをした工業用ミシンで分担作業を行う。それを企業の担当者が車で決まった時間に回収にまわる。賃金は完全出来高払いだ。繊維会社で勤務していた女性やそういったかたに指導を受けた人が作業を行うので、企業は人材育成の手間を省け、小ロットで短期の労働力を、柔軟に確保できる。そしてお母さんたちは家事育児をしながら自分のペースで仕事ができたのだ。お母さんたちが我が子や全国の子どもたちのためにつくる製品には愛情がこもっていた。もちろんデメリットもある。仕事の量や質が安定しないこと。工業用ミシンが扱いも難しく、高額であること。そして、ガソリン代の高騰などだ。景気が悪くなると一番に仕事をカットされることもあって、今ではその多くが姿を消してしまった。
しかし、未だ児島では完全自社一貫生産をしている企業は数少ない。企業も地域に仕事をまわしていこう、地域住民も困っている仕事を手伝ってあげようという意識をもっている。単なる資本主義的な関係性ではなく、地域のつながりと昔ながらの職人気質とのふれあいが今も児島を支えているのだ。
ミシンを踏むお母さんの背中を見て「ちょこっと」お手伝いや「おこづかい」稼ぎなんてしながら育った子どもたち。ものづくりの素晴らしさやものを大切にする気持ちを学んでいた。今では少なくなってしまった組縫組織だが、児島の50~80代のお母さんはまだまだパワフル。「昔サンプル縫ってたのよ」ってかたが大勢いらっしゃる。素晴らしい技術をもつお母さんと、その次の世代につながる価値観。これが学生服産業のもたらした児島の貴重な財産だ。
取材協力:明石被服興業株式会社、尾崎商事株式会社