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帆布

  1章:「用の美」の宿るものづくり、倉敷帆布

1章:「用の美」の宿るものづくり、倉敷帆布
帆布とは撚り合わせた綿糸を用いて織った、1平方メートルあたり8オンス(約227g)以上の平織りの地厚い織物を呼ぶ。
英語ではCANVASと呼ばれ、船の帆で想像し難いかたは油絵のキャンバスを思い描いていただくとわかりやすいだろう。
本来は天然素材だけで作られていて、撚り合わせの糸の組み合わせにより厚さが定められており1号から11号までの規格がいまも基準値として守られている。使い続けるほどに味わいがうまれ、耐久性・通気性にも優れている。
倉敷帆布はこの「織」が一味違う。極太の糸をヴィンテージジーンズに使われるシャトル織機にかけ平織していく。
すると独特の風合いをもつ「織物の耳=セルヴィッジ」つき帆布が誕生するのである。

「用の美」の宿るものづくり、倉敷帆布倉敷と聞いて思い浮かべるのは、まず、なまこ壁に柳がそよぐ美観地区の情景だろう。倉敷美観地区は、1930年(昭和5年)に建てられた日本最初の西洋美術館である大原美術館の建築が契機となりつくられていったまちである。

 

「用の美」の宿るものづくり、倉敷帆布かつて倉敷は「綺麗さび」を開いた茶人、小堀遠州により大阪冬の陣の軍需港として開花した。天領として幕府保護の下、酒脱な商家の取仕切る町として隆盛を極めたものの、時代が移り代わり運河の都市としての役目を終えると、今の美観地区からは想像もできないほど堕ちてしまった。白鳥と鯉が目を楽しませてくれる堀割は悪臭を放っていたというから哀しいかぎりだ。そのおちぶれてしまった倉敷を今の「倉敷」へと導いたのが、クラボウ・クラレ・中国銀行創設期の経営者大原孫三郎氏とその後継者大原總一郎氏。大原美術館を始めとする主要ランドマークを次々と建設した。そして、この名実ともに倉敷のシンボルである大原美術館の敷地内に、「倉敷民藝館」がひっそりと佇んでいる。

 

民藝の美には自然の美が活き国民の生命が映える。
而も工藝の美は親しさの美であり潤いの美である、凡ての作為に傷つき病弱に流れ情愛が涸死してきた今日、吾々は再び是等の正しい美を味わう事に、感激を覚えないであろうか。
美が自然から発する時、美が民衆に交わる時、そうしてそれが日常の友となる時、それを正しい時代であると誰か云い得ないであろう。
「用の美」<上> 柳宗悦コレクション 日本の美  監修:日本民藝館

 

「用の美」の宿るものづくり、倉敷帆布帆布製品を目にしたとき、この倉敷発の民藝に見いだされた美のかたち「用の美」を思い描く。 倉敷市曽原、今は陸続きで当時の面影を見るのは難しいが、もとは「瀬戸の穴海」とよばれ船の往来が盛んであった地域。その船の帆として使われていた生地が、文字通り現在の「帆布」である。今日の帆布の7割は、ここ、倉敷で産まれている。

 

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