新渡戸稲造博士が「世界の宝石」と讃えた、瀬戸内海。多島美の極致、瀬戸内海。そこに架かっているのが、言わずと知れた瀬戸大橋である。岡山後楽園の配石美をヒントに設計された6つの橋の総称がこの美しい「瀬戸大橋」であるが、本土と四国を繋ぐこの橋の完成を契機に、児島の、いや、日本の景色と産業は大きく変わることとなった。
この橋の本土側の端を担っているのが児島下津井地区。山陽道児島インターチェンジを降り、鷲羽山をもう少しのぼると、巨大な瀬戸大橋が現れる。離れてみると弦楽器を思わせるしなやかで優美なその容貌も、近くで見ると、さすがは全長1000m、東京タワー13基分に値する45万3000tもの鋼材が使用されているというだけあって、迫力の金属美を見せる。特に下津井地区には瀬戸大橋の真下を通る道があり、ここからの眺めが地元民のおすすめ。自動車のみならず電車まで通す力強さが、漁船と合いまり、どこか親しみやすさを感じるのだ。
かつては無謀だと言われてきたこの橋の建設は、哀しい事故がきっかけとなって動きだした。
きっかけは紫雲丸沈没事故
そこに見えるのに渡れない。瀬戸内海は波は穏やかだが、大小さまざまな島が潮の流れを複雑に変え、また、風や霧が邪魔をするため小さな船では渡れなかった。本四を結ぶ橋の建設は地元住民の誰もが夢見ていたが、海を眺めてはその難しさを誰もが感じていた。「夢の架け橋」の呼び名は、「夢を見とるんか」と言われていたことに由来してつけられたとも言われている。事実、この大橋の提唱は明治22年にあったというのだから、本州四国連絡橋公団設立までに81年、建設に18年、実現までに約100年の歳月を要したこととなる。前例のない海中工事や爆破による漁業への影響、資金繰りなど、直接の問題はもちろん、第二次世界大戦や第一次石油ショックなど世界情勢も激動する時代であった。この「夢の橋」の必要性を決定づけたものは、痛ましい事故であった。
日本国有鉄道の宇高連絡船紫雲丸は、1947(昭和22)年6月9日の就航から、わずか9年間に5度にわたって事故を起こした。その中でも最大の被害を出した1955(昭和30)年5月11日の5回目の事故は、168名という犠牲者をだす。衝突地点は北緯34度22分35秒東経134度0分58秒。瀬戸内海女木島沖。修学旅行で乗り合わせていた、100名をこえる未来ある小中学生が犠牲となった。地元有志による追悼録「いでたちしまま」によると『現場では次々と児童生徒の遺体が搬出されたが、その様子はあまりにも凄惨で、搬出活動にあたった者の多くが、長らくその状況を語ることができないほどであった』という。本州四国連絡橋の3計画ルートのうち、児島・坂出ルートが最初に建設されたことからも、この事故が瀬戸大橋建設の機運を一気に高めたことが知れる。
この5度目の事故が社会に与えた影響は特に大きく、国鉄による鉄道連絡船の安全基準が大幅に見直され、海上保安部による停船勧告基準も厳格化された。また全国の小中学校へのプールの設置と体育の授業における水泳の普及も進められるようになった。
安全性では、紀伊半島沖や土佐沖で100年に1、2度発生が予測されているマグニチュード8程度の大地震、また、150年に1度発生が予測されている秒速65メートルの台風にも耐えられる設計だ。二度と痛ましい事故が起こらないよう、母なる海に架かる母なる橋が見守っている。
→鷲羽山ビジターセンター